杏仙
荊棘嶺の杏の木が修行して成り上がった女妖で、美しい少女に化けることができる。武力や法術ではなく、一首の情詩によって三蔵法師に想いを伝えた、物語の中で最も風雅で穏やかな求婚を試みた女性である。
第64回の木仙庵での詩会が後半に差し掛かった頃、十八公ら四人の樹精の老人たちはふと話題を変え、三蔵法師にこう切り出した。「我らには一人の佳人がおりまして、聖僧と良き縁を結ばせたいと考えております」 言葉が終わるか終わらないうちに、一人の若い女が庵の後ろから現れた。端正で美しい容貌に、気品ある立ち振る舞い。彼女は他ならぬ、荊棘嶺の一本の杏の木が修行して精となった杏仙だった。彼女は三蔵法師に飛びかかってしがみつくこともなければ、術を使って惑わそうともしなかった。ましてや、恐ろしい姿に化けて脅すようなこともしない。ただ三蔵法師の前に歩み寄り、一首の詩を口にした。 その詩の内容は、概ねこんなところだ。春風が杏の花を咲かせ、この良き時は逃してはならない。どうかあなたという君子と、良き縁を結びたい。 妖魔ばかりがうごめく取経の道において、これは三蔵法師が受け取った唯一の「ラブレター」だった。しかも、詩という形をとった、極めて雅なものであった。
荊棘嶺の才女:全書で最も知的な女妖
『西遊記』に登場する女妖は少なくない。白骨精は三度姿を変え、機知で相手を欺いた。蠍の精は並外れた武力を持ち、如来仏祖までもが彼女に刺されたことがある。玉兔の精は月宮という背景を盾にし、七匹の蜘蛛の精は七人姉妹で手を組み、数と術で圧倒した。彼女らはそれぞれに手段を持っていたが、「教養」という次元で言えば、全員合わせても杏仙一人に及ばない。
杏仙は、物語の正文の中で完全な詩作を残した唯一の女妖である。彼女の詩は、作者の呉承恩が適当に韻を合わせたものではない。明代の文人の作品に照らしても、その水準は相当に高い。言葉選びはしとやかで、情景は清らかだ。典型的な「閨閣体」でありながら、林間の清々しい空気を纏っており、それが杏の木の精という彼女の正体と静かに響き合っている。中国の詩詞において、杏の花は春と愛情の象徴だ。「杏花春雨江南」という古典的なイメージがある。杏の花という象徴を用いて慕情を伝える。それは適切であり、かつ含蓄に富んでいた。教養ある女性がなすべき、正しき告白の作法だった。
これは他の女妖たちの「求愛戦略」とは鮮やかな対照をなしている。蠍の精は三蔵法師を強引に捕らえて寝室に閉じ込めた。女児国の女王は国家の権力を用いて彼を留めようとした。玉兔の精は公主に化けて宮中に潜り込み、罠を仕掛けた。彼女たちの共通点は、目的を達成するために武力や権力、変化術といった「外力」に依存していることだ。 だが、杏仙の手法は全く異なる。彼女が頼ったのは、自分自身の才覚と真実の情熱だった。彼女は三蔵法師を誘拐せず、惑わせもせず、身体的な接触さえ持たなかった。ただそこに立ち、詩を詠み、三蔵法師の反応を待った。
このような「詩による求愛」は、古代中国では珍しいことではなかった。文人が詩を贈って想いを伝えるのは高度な社交行為であり、『詩経』にも愛情を伝える詩歌が数多く収められている。しかし、杏仙は人間ではなく、一本の木だ。一本の木が詩を書き、人間が持つ最も洗練された方法で感情を表現することを学んだ。その事実自体に、深い寂寥感が漂っている。彼女はどれほどの年月をかけて修行したのだろうか。不老不死を願ったわけでも、一帯の覇者になろうとしたわけでもない。ただ、人間のように愛情を感じたいと願っただけだ。『西遊記』の妖怪たちの系譜の中で、この想いは最も純粋であり、同時に、最も役に立たないものだった。
詩による求愛:最も穏やかな「強引な結婚」
三蔵法師は取経の道中で、何度も「強引な結婚」を迫られてきた。四聖が禅心を試した回は菩薩による試練だった。蠍の精に捕らわれたのは武力による強制であり、女児国の女王に請われたのは権力による誘惑だった。玉兔の精が公主を装ったのは、巧妙な罠だった。どの「強引な結婚」にも、法術や軍隊、あるいは陰謀といった強制力が伴っていた。
杏仙による「強引な結婚」は、取経の道中で最も穏やかなものだった。彼女には強制的な手段など何一つなかった。四人の老人が仲介し、彼女自身が詩で想いを伝える。もし三蔵法師が承諾すれば、それは互いの想いが重なるということだ。もし拒絶されたとしても、彼女にその後の強行計画などなかった。最初から最後まで、杏仙は三蔵の自発的な反応を待っていた。彼の意志を無理やり変えようとはしなかった。
三蔵法師が拒絶するのは当然のことだった。彼は「出家者は女色に近づかない」という信念を骨の髄まで刻み込んでいる男だ。たとえ目の前にあるのが美しい詩と真心であっても、揺らぐことはない。原作では、杏仙の詩を聞いた彼が「正色して」こう言ったとある。「貧僧は出家した身であり、そのような考えを持つ勇気はございません」。この「正色」という言葉には深い意味がある。それは怒りに満ちた表情ではなく、端正な面持ちで、真摯に向き合おうとする態度だ。蠍の精に直面した時の恐怖や、女児国の女王に見せた狼狽とは違う。杏仙に対して、三蔵法師は「真面目に拒絶」した。彼はその情意を真摯に受け止め、そして真摯に「ノー」と言ったのだ。
拒絶された後の杏仙の反応について、原作は多くを語っていない。四人の老人がさらに数言説得したが、三蔵法師はやはり承諾せず、場は膠着状態に陥った。やがて夜が明け、猪八戒がやってくる。そして、あの粗暴な結末が訪れる。八戒が釘鍬を振り回し、四人の老樹精を根こそぎなぎ倒した。杏仙もまた逃れることはできず、杏の木の原形に打ち戻された。
杏仙の最期の姿は、地に倒れた一本の杏の木だった。花びらが地面に散らばり、幹は折れている。この光景は、全書の中の数ある戦闘描写の中でも、唯一無二の凄美さを湛えている。他の妖怪たちが打ち倒されて現れる原形は、虎や蛇、鼠や蠍といった、本能的に嫌悪感を抱かせる動物たちだ。だが、杏仙の原形は花を咲かせた木だった。花を咲かせた杏の木が、荊棘の茂みに倒れ、花びらが地面に散る。それは妖怪が消滅する場面というより、美しい生命が破壊される場面なのだ。
一本の木の片思い
杏仙の物語を別の視点から見れば、「分を越えた望み」についての寓話とも捉えられる。彼女は木でありながら、修行して人の姿となり、人の言葉を学び、詩を学び、人の感情を学んだ。だが、どれほど精巧に模倣しようとも、彼女は結局のところ人間ではない。一本の木である。一本の木が人間と愛し合いたいと願うこと、それはそれ自体が種を超えた「分不相応な僭越」だった。
『西遊記』の世界観において、妖怪が人の姿に修行することは許されている。ただし、人を害さないことが条件だ。杏仙の「罪」は人を害したことにあるのではない(彼女は最初から最後まで誰も傷つけていない)。彼女の罪は、得てはならないもの、すなわち「人間の愛情」を欲したことにある。これは蠍の精や白骨精の「罪」とは全く異なる。彼女ら妖怪の目的は、三蔵法師の肉を食べ、経を運ぶ者の命を奪うという、剥き出しの悪行だった。対して杏仙の目的は、三蔵法師と恋をすることだった。人間の世界で考えれば、それは「間違い」ですらなく、単なる「片思い」に過ぎない。
しかし、取経という物語の枠組みにおいて、三蔵法師の西行を妨げるあらゆる要因は「難」となる。杏仙の詩、杏仙の情意、月光の下に佇む彼女のシルエット。それらすべてが、三蔵法師の意志に対する試練となる。もし三蔵法師が心を動かされてしまえば、取経という大業は崩壊する。その意味で、杏仙の優しさは蠍の精の毒刺よりも危険だった。毒刺は身体を傷つけるだけだが、優しさは心を揺さぶるからだ。
八戒がためらいなく彼女を原形に戻したことは、物語の論理からすれば必然だった。取経の道において、いかなる理由があろうとも「立ち止まる」ことは許されない。だが、感情の論理からすれば、この結末はあまりに残酷だ。杏仙は何も間違ったことはしていなかった。ただ、間違った時間、間違った場所で、決して自分を愛することのない人を愛してしまっただけなのだ。
関連人物
登場回
Tribulations
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